ホームエデュケーションでご機嫌な毎日

2014年よりホームエデュケーション(ホームスクーリング)開始。きっかけは子どもの不登校。そこから見える景色や日常、思ったこと感じたこと考えたことなどなどを綴っています。

明けまして。

 

明けましておめでとうございます。

すっかりご無沙汰しておりました。

前回の最終更新日はいつだったかなー?と確認してみたら

10月6日!!!!!

3ヶ月も経っていました💦💦💦

 

いやー。この3か月、大変だったのですよ。

何が?って

子どものメンタルのアップダウンにお付き合いするのがですね。はは。

 

そりゃあそうです。

主に学校の人間関係が発端となって不登校

以来5年半ずっとお家中心で育ってきて 

中3の6月から登校開始。

内申点ほぼ無しの状態からの公立高校受験志望で

ハードな受験勉強と

まだちょっと不安が残る人間関係を

同時進行で進めてきているんですもん。

 

よく頑張ってるなあ、、、、、

って思います。

 

で、この3か月どうしてたかって言うと

ひたすら子どもの話を聞いてました。

人間関係で感じるしんどさ。

拭えない不信感。恐怖感。不安感。

内申点不備のまま迎える高校受験への不安。

(しかし止めるという選択肢はないらしい)

などなど。

時に涙が出てしまったり。

ちょっと荒れてみたり。

弱気になったり。

 

私も、その都度一緒に落ち込んだり

叱咤激励してみたり。笑

 

でもね。

そんな毎日を繰り返しているうちに

ある時、ふと気づいてしまったんです。

 

話をしている時は

感情の持って行き場に困って

上がったり下がったりの息子ですが

一通り話して吐き出して

一晩寝たら

翌朝は何事もなかったように

登校していくことを。

 

そのことに気付いたとき

ああ、そうか。

って思ったんです。

私って、そういう役回りでいいんだって。

 

別に解決策を出さなくても

励まさなくても

ただ子どもの話を聞いて

感情の整理をお手伝いすればいいんだなって。

 

うまく感情の整理がつけられたら

子どもは自分でまた立ち上がって

前に進んで行くんだなって。

 

そして、もう一つ気付いたこと。

私も人と話をすること

話を聞いてもらうことで

グンと気持ちが楽になるんだってこと。

ちょっとしたボヤキでも、ね。

 

この3ヶ月、

いろんな人に泣きついて

話を聞いてもらって

愚痴を吐き出して

その愚痴を笑いに変えて。笑

そんななんでもないやり取りが

実は大事ってことを

身をもって体感しました。

 

普段、あんまし自分の話はしないからなー(笑)

たまには聞いてもらうのも良いものです。

 

私も息子も。

息子の不登校がきっかけで

こうして相談に乗ってもらえる人が

身近にできたこと。

もしかしたら

それが一番の収穫だったかもしれない。

 

感謝の気持ちを噛みしめながら

今年も親子で一歩一歩

前に進んで行けたらと思います(*^^*)

 

 

 

すぐに結論を出さない。決めつけない。

 

不登校あるある話。

  

子どもが学校に行きにくくなったりすると

大人はつい、不安になるんですよね。

何ででしょうね?

 

 

でね、その不安の先にある行動が

「原因を探す」

 

原因や理由がわかれば安心するんですよね。

まあ、それは自然の摂理だと思います。

よくわからないものに恐怖を抱くって

本能みたいなものですからね。

 

ある意味それがあるから、

未知のものを解明したいというヒトとしての本能や欲求があるから

文明が発展してきた

という面もあるのでしょうから

そのこと自体は悪いことではないと思います。

否定はしません。

 

よくわからないものには原因や理由を見つけたいんですよ。人間は。

だから、自分を安心させるために

子どもが不登校なんかになっちゃったりしたら

原因を探したくなるんでしょうね。

 

 

その根底にあるのは

「子どもが学校に行きたくないなんてこと、ある筈がない」

という思い込み、というか

前提条件があるんでしょうね。その人の中で。

 

でね。

そこで私は思うわけです。

 

その前提条件って、信じてていいの?

その前提条件は、絶対のものなの?

ってね。

 

なんで、子どもが学校に行きたくないなんてこと

あるはずがない、って思っちゃうんだろう?

もしかしたら

その人は、ずっと学校で楽しく過ごしてきた人なのかな?

 

 

私見だけど。

私がいつも思うのは

自分が子どもだったころは

学校が嫌だったり

ちょっとくらい何かあっても

なんだかんだ逃げ場があったかなー

ってこと。

 

学校、まじめに行ってなくても卒業はできるとか

学校の人間関係がちょっとくらいアレでも

近所の友だちとか

親戚・いとこたちとか

他いろいろ

別の関係性があったかな、とか

ぎりぎりのところで学校に繋がってる状態でも

それで責められることもなかったし

変に先回りして心配されることもなかったし

大して困ったことにもならなかったし

まあ、私の周りの大人たちは困っていたのかもしれないけど ←

 

決して昔の子のメンタルが強かったとかではなく

気持ちの逃げ場所が

何かしらあったし

そういう逃げが許される環境があったんじゃないかって

思うんですよね。

いい意味で放っておいてもらえるみたいな。

 

今よりも

周りの大人たちがデンと構えて

受け入れてくれる幅が広かったような

気がします。

一言で表すと、おおらかって言うのかな。

 

 

今の子

ちょっとした気持ちの逃げ場がなさ過ぎて

いろいろ溜め込んじゃって

最終、学校に行けなくなるって

あるんじゃないかな。

 

だったら、それはもう

行かない方が良い。休んだ方が良い。

って、私は思います。

 

それでバランスが取れるなら

そうしたらいいじゃん。って。

そうやって自分のバランスの取り方を会得していけるなら

それはそれでいい勉強になってるんよ。

逃げることも大事。

逃げ方だって大事。

 

人生数年~十数年しか生きてないんだから

気持ちの逃がし場所も希薄な中で

そりゃあ大人みたく器用にバランスなんて

取れないでしょうに。

 

なのに、なんで今は

ちょっと子どもが学校に行かなくなったくらいで

(あえて、そう言います。)

こんな大騒ぎになっちゃうんでしょう??

 

もー、ええがな。

放っといたりーな。

、、、、、、って、思っちゃう。

 

変に大騒ぎしすぎるから

子どもだって

「自分、おかしいんちゃうやろか」

って心配になるんじゃないかな?

 

心配になるから

不安がどんどん膨らんでいくんじゃないかな?

 

 

今の子を見ていると

学校以外の人間関係も少ないし

無駄な時間をボヤっと過ごす時間も場所も少ないですよね。

 

学校に行ってたからと言って

その間、常に合理的に無駄なく動いていたわけじゃない。

何もかも上手くいっていたわけじゃない。

私は、そのことを肝に銘じて

子どもが

〝不合理〟だったり〝無駄〟だったりする時間を

過ごしていくことを

認めていきたいと思います。

 

子どもが学校に行かないくらいで

その時のその子の行動だけで

その子の特性や能力や親子関係などに原因を求めて

〝こうだろう〟と決めつけることは

なんだかとっても

尊大な感じがするのです。

 

 

今、たまたま学校に行ってる子は

やっぱりなんだかんだ

どこかで気持ちを逃して

バランスとってるんじゃないかな。

いじめ問題とか学校内暴力とか

スクールカーストとか

いろいろあるみたいだし。

それで傷付く子がいるってことは

それで自分を守ってる

バランスを取ってる子もいるってことなんじゃない?

そっちの方法を取るか

学校行かない方を選択するか

それだけの違いなんじゃないかな?

 

なんで、学校に行かない方の選択をした子だけが

問題視されるのか

本当に意味が分からない。

 

 

ゆっくりと

ゆったりと

その子のペースで成長していけばいいじゃないかと

思います。

 

そして、その子自身で色々と試しながら

〝自分が楽に幸せに生きる方法〟を

見つけていけば良いと思います。

 

私自身もそうしてきたし

まだまだ成長の途中なのですから。

 

 

 

ただの愚痴と弱音(笑)

 

ぐはあーーーーー。

疲れたーーーーー。

 

 

何がって。

 

最近、パソコンを使って

お仕事をする場面が増えてきたんですよ。

 

私ね、こう見えて。

いや、見たまんま

機械系苦手ですねん。。。(´-ω-`)

 

 

とりあえず

取説とかあっても確認せんと

フィーリングであちこちいらうタイプな。笑

 

 

苦手なくせに

とりあえず、せなあかんのやったらやりますわー

って、軽く言ってやってみて

 

ぐはーーーーーって

沈没するタイプな。笑

 

 

 

はは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吐きそうや。。。。。。。( ̄ロ ̄lll)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Googleドライブって

なんやねーーーーーーーん!

 

使てるけど、何がどうなってるか

どこがどう共有されてるんだか

未だに分からへんわーーー!

(遠隔の人とファイルを共有して一緒に作業できることだけは分かってる)

 

 

便利なんやろうけど

いや。便利なんやけど。

 

 

 

 

もうちょっと分かりやすく作ったってー!

 

ねえ?Googleさんよ。

 

 

やればやっただけ経験値がたまるから

来た仕事はなるべく断らない主義やけど

さすがに今回は

 

 

参りましたーーーーーーーーーー。

 

 

もう、付いていくのん必死なんですけどー。

 

はああ。。。。。。

 

 

 

リモートワークなんて大っ嫌いだ。

リモートワークなんてこの世からなくなればいいのに。

リモートワークなんて

リモートワークなんて

 

 

 

 

くそくらえやーーーーーーー!!!

 

 

 

 

ふうう。

言うたった。

 

 

ふんっ。

 

 

自立に向かって。

 

近ごろ息子の変化が著しいです。

 

まず、1週間前から

自ら起床時間を大幅に繰り上げました。

今、毎朝5時~6時起きです。

で、7時半に登校して、学校で朝勉をするようになりました。

 

授業も積極的に参加し

クラス活動や班活動にも積極的に顔を出し

今日は、体育祭の練習に顔を出してお手伝いしようかなー?

って言いながら登校していきました。

自分なりに出来ることを探して

クラスに貢献したい気持ちが出てきているようです。

 

さらに。ついに!

中3受験生として覚悟が決まったのか

今日限り(9月末限り)でパソコンのオンラインゲームを一時引退する

という宣言まで発動しました。

あんなにゲームを愛している息子が、です。

 

 

どうした!?

何があった!?

 

 

とにかく今、息子の内面が

どんどんと変化しているのを感じます。

 

特に対人面で、

多くの人と関わりたい気持ちを

まっすぐに出すようになってきました。

 

成長を感じると同時に

その分

私には見せないところで

自分の感情の変化と対面しているようにも感じます。

 

おそらく、決して

ポジティブな感情の時ばかりではないのでしょう。

 

ちょっと凹んだり

悔しい思い、ふがいない思いを味わったりも

しているんじゃないでしょうか。

 

それを

私の手を離れて

自分なりに考えたり

誰かと相談したりして

解決していこうという姿勢が

垣間見られるようになってきました。

 

自分で自分を動かせること

自分の望む結果に、自分で歩いていくこと

 

そういう意志が育ってきていることが

ただただ嬉しいです。

 

 

ホームエデュケーションを通して

根っこがちゃんと育ってきてたのかなって

頼もしい思いで

息子の変化を眺めています。

 

 

息子、自ら人間関係作りに動き出した!

 

別室登校メインで通学していた息子ですが、

最近、

授業に入ることの方が多くなってきました。

 

そうするとですね

問題になってくるのが

〝休み時間をどうやって過ごしましょう〟問題。

 

別室登校開始後、約2カ月。

最初のうちは、

別室での人間関係作りや

学校の中での心理的な居場所作りを

担任の先生はじめ

校内の先生方の温かい配慮に守られてやってきました。

 

そして今、ようやく息子が

更なる一歩を自分自身で歩み始めようと

しているのを感じます。

 

 

息子の観察によりますと

クラスメイトの子たち

比較的、みんな穏やかだそうです。

教室の中でも、ちょっと安心して過ごせるように

なってきたみたい。

 

でも、まだ親しくお話しできる子はいないみたいで

クラスの中でどう過ごしていこうか

息子なりに色々と作戦を立てているようです。

 

まずは、自分の席の周りの子の名前を覚えるとか

クラスの中の自分の役回り(ナントカ係)に積極的に関わるとか

クラスの中のどの子が一番話しやすそうか観察したりだとか

どの子と繋がると知り合いを広げられそうだとか

 

色々と考えているみたいです。

 

そして、周りの子の会話に耳を集中させて

それぞれのパーソナリティ把握のために

密かに情報収集をしているようです(笑)

 

帰宅したときには

「今日は〇〇くんと喋った」

「今日は何人の子と喋った」

「班活動でこういうことをした」

と、報告をしてくれます。

 

誰とも喋れない、どうしようー?

と孤立感を深めるでなく

自分が望む状況に至るために自分がどう動けばいいのか

冷静に観察して考えて作戦を立てる。

 

良いんじゃないのー?

カシコクなってきたね!

 

 

と、頼もしく思う一方で

きっと毎日そうやって頑張ってきてるんだろうな

とも思います。

 

 

今年度に入って

色々なことが一気に動き出しています。

 

息子なりに頑張ろうとしているその気持ちを

見過ごさないようにしていきたいな

と思います。

 

 

 

 

 

教育を受ける権利

 

よく言われるんですよね。

子どもが不登校になってホームエデュケーションに転向するって

なんで、そんなに吹っ切れたの?って。

 

悩まなかったの?とか

不安じゃなかった?とか

言われるんですよね。

 

不安じゃないわけじゃなかったけど。。。

 

 

 

そうそう。

 

世間一般の大半の人は、

「義務教育」のことを

「子どもが学校に行く義務」だと思ってるんですよね。

違います。

「義務教育」とは、

「子どもが教育を受ける権利を保障する」義務があるってことなんです。

 

 

でね。

不登校って、子どもが何らかの事情があって学校に行きたがらない状態なんですよね。

その事情は、その子によって様々でしょう。

事情は様々だけど、

行くとしんどくて勉強どころではない状況になる訳です。

 

その我が子を安全な家庭に避難させて、

安心して暮らしていくことを保障する。

そして

安心できる場を確保したうえで、教育を受ける機会をサポートしていく。

 

これって

無理やり「学校」という箱に通わせて

勉学意欲、生きる意欲を削いでいくことよりも

至極合理的だと思うんですよね。

 

だから、そうした。

 

それだけなんですよね。

 

 

自分としては

子どもの命と

子どもが教育を受ける権利を守っただけだよ

って、思ってます。

 

 

 

〝選択肢〟という言葉の罠

 

今、多様性って言葉が流行ってますよね。

 

で、それに呼応するように

教育の世界でも

〝教育の多様性〟とか

〝教育に選択肢を〟ってことが言われています。

 

私は、そのこと自体は否定しません。大事なことです。

 

でもね。

〝選択肢〟という言葉は曲者かもしれない。

 

〝選択肢を〟という思考からは

〝すでにそこにあるもの・そこに用意されたものの中から選ぶ〟

という発想しか生まないから。

 

 

その発想で世界を見渡したとき

 

例えば

 

 

 

子どもが学校に行かなくなった。

適応指導教室にもなじめなかった。

フリースクールにも。

フリースペースにも。

あの教育機関も。

この通信教育さえも。

 

と、八方塞がりになることはないかな??

 

 

そうすると

その子は育っていけないのかな?

その子は、学ぶことは出来ないのかな?

 

どうだろう?

 

 

 

じゃあ、学校がなかった時代の大人たちは

どうやって子どもに知識や知恵を与えて育てたんだろうね?