ホームエデュケーションでご機嫌な毎日

2014年よりホームエデュケーション(ホームスクーリング)開始。きっかけは子どもの不登校。そこから見える景色や日常、思ったこと感じたこと考えたことなどなどを綴っています。

どうする?ホームエデュケーション

 

さて、「ホームエデュケーションで行こう」と決めたものの

何をどうすればいいのやら

さっぱり分かりません。

 

学校に「当分行きません」と伝えたあと

子どもにも、

「もう行かなくていいよ」

「今までよく頑張ったよね」

と伝え、晴れてホームエデュケーション生活に突入したものの

気持ちはちっとも晴れやかではありませんでした。

 

 

学校に行かなくていいと決まってから最初のころは

子どもは精が尽きたかのように、ずいぶんと長く眠りました。

疲れたんだろうなあとも思ったし

私自身もこれからどうしていこうか考える時間がほしかったので

無理に起こすこともしませんでした。

 

 

その頃の私は

自分がどのように子どもを育てていきたいのか

ずっとそういうことを考えていたように思います。

 

子どもが学校に行き渋りだしてから完全に行かなくなるまで

期間にすると2~3か月だったのですが

人生でこれ以上ないくらいの集中力で、読める書籍は全て目を通し

その結果、結局は不登校や育児に正解なんてなくて

自分が信じる方法や考えで進めていくしかないんだという結論に至りました。

学校に行かないことを決心した後は

じゃあ、これからをどうしていくか

とにかく自分で一生懸命考えるだけです。

 

自分はどういう風に子どもを育てていきたいのか

考えて考えて。

子どもが生まれたころに、自分は何を思ったのか

どういう風に育っていってほしいと願ったのか

原点まで遡って考えようと思いました。

 

そうやって、自分の中の気持ちを研いで研いでしていったとき

とにかく子どもには、“自分の人生”をたっぷりと味わってほしい

と思いました。

 

順番でいくと、高い確率で

私は子どもの人生を最後まで見届けてあげられません。

どんなに悩もうと考えようと

つまり私は

自分の子育てが正解だったのか間違っていたのか

確認することなく先に死んでいかないといけない立場です。

 

そして、最後に子どもの人生を評価できるのは

子ども自身でしかないことに

思い至りました。

 

私は所詮、子どもの【人生】というドラマの中では

「ぼくのお母さん」という脇役でしかないこと。

それも、彼の人生の中で直接関わる期間は

前半の極めて限られた間だけであること。

それでも、彼の人生の中ではまあまあな影響力を持つであろうこと。

けれども、私のもとを離れてからは

彼の人生の選択の一切を、彼自身がしていくのは当たり前であること。

 

そんなことをつらつらと考えているうちに

私が彼をどう育てたいかなんてどうでもよくて

子ども自身が

自分の人生を終えるときに「ああ。いい人生だったなあ」と

納得しながら死んで行けるのが

子どもにとって一番幸せなことではないかと思うようになりました。

そのために、私が今できることは何だろう?

 

私にとってホームエデュケーションは

今もその問いと共に進んでいます。

 

 

私は、子どもにとってはただの脇役でしかありません。

けれども

「ぼくのお母さん」という役どころを

無様でもカッコ悪くてもはた迷惑でも、圧倒的存在感をもって演じていきたい。

記憶に残る名脇役としてありたいなあ、、、と思っています。

 

 

子どもが自分の人生を終えるときに「ああ。いい人生だったなあ」と

納得しながら死んで行けるように。

そのために私が今できることを。